初秋の鉱石の道探検:明延~神子畑~生野
銀の馬車道と共に日本遺産に登録されている【鉱石の道】。
今回は、但馬内にある4か所の鉱山のうち、【明延】、【神子畑】、【生野】の3か所を5時間で探ってきました。
歴史ある鉱石の道をこんな短い時間で全部を理解できるはずありませんが、今回は観光パンフなどにあまり取り上げられていない場所を含めて散策してきました。
そのためメインの場所はある程度カットしている事をご容赦下さい。
明延鉱山
まずは、【明延鉱山(あけのべこうざん)】から。
明延鉱山は養父市大屋町にあり、かつては日本一のスズの産出量を誇った鉱山です。
昭和62年に閉山し、かつての賑わいはなくなりましたが、当時の様子を色濃く残す町並みは必見です。
これは、明延鉱山から神子畑までの約6kmを運行していた一円電車の実物。
この車体は「しろがね号」という名前がついています。
赤金号など他の車両は、ここ明延と神子畑、生野鉱山などに分散して今も保存されています。
一円電車は明延で採掘した鉱石を、選鉱場のある神子畑まで運ぶため造られた鉱山鉄道で、正式名前は「明神電車」。
当時の乗車賃が1円だったので「一円電車」という愛称で呼ばれています。
明延では「くろがね号」という別の車体に実際に乗ることもできます。
詳しくは明延鉱山のHPをご確認ください。
明延鉱山の中に入れる「坑道探検」は有料で事前予約が必要です。
こちらも詳しくは明延鉱山のHPをご確認ください。
坑道からレールが出ていてすぐ前の川手前で切れていますが、なぜなのでしょうか?
これを含めて鉱石の道には単なる観光では判らない場所がいっぱいあります。
坑道出口はこれより少し山の上にあります。
出口のすぐ近くにも一円電車が展示されていますね。
少し歩いて散策してみます。
こちらのピンクでレトロなかわいい建物は旧明盛共同浴場「第一浴場」です。
かつて6つあった共同浴場のうち唯一、当時の外観のまま現存しています。
現在は、明延鉱山の資料館として利用されています。
昭和初期の雰囲気をそのまま残す商店街も魅力的です。
ノスタルジックな空気が漂います。
こちらは北星社宅。木造と鉄筋コンクリート造の社宅があります。
昭和30年代の鉱山最盛期には、約700戸の社宅に4,000人以上の住民が生活していたそうです。
他にも付近には、旧明延小学校、たばこ屋さん、鉱山産出の銅でつくられた梵鐘のあるお寺など見どころは多々ありますが、県道6号線→国道429号線を通って次の目的地【神子畑】に向かいます。
神子畑選鉱場跡
【神子畑選鉱場跡(みこばたせんこうじょうあと)】に到着しました。
かつては東洋一の選鉱場と云われたこの施設も、昭和62年の明延鉱山の閉山とともに閉鎖されました。
現在は建物は残っておらず、選鉱場の土台となった鉄筋コンクリートやごく一部の設備だけが残されています。
写真左にインクラインとよばれるレール跡が見えます。明延産の鉱石を選鉱場内の上下に運んでいたのでしょう。
こちらの神殿のような建物はシックナーと呼ばれる装置です。
選鉱の後の不純物を処理する装置で、中には当時使われていた機械が一部残されています。
シックナー内は立入禁止となっていますので、柵の外から中の様子を窺うにとどめましょう。
神子畑川を横切る「神子畑鋳鉄橋(みこばたちゅうてつきょう)」は国指定重要文化財に指定されています。
鉱石を神子畑から生野鉱山の精錬所に運ぶための輸送用道路の道中に架けられた橋です。
また、現在は移設されており当時の軌道には乗っていませんが、「羽渕鋳鉄橋(はぶちちゅうてつきょう)」も神子畑と生野のあいだにかかっていた橋の1つです。
国道のすぐ脇にありますので是非立ち寄ってみてください。
ここからは神子畑周辺の少しマニアックな場所を見てみたいと思います。
神子畑小学校体育館跡(写真・左上)、今は体育館しか残っていませんが最盛期には200名以上の子どもたちが通っていたそうです。
橋の一円電車モニュメント(写真・右上)、橋の基礎らしき建造物跡(写真・左下)、神子畑と生野を繋ぐ道が通っていたトンネル跡(写真・右下)など、詳しく紐解いていけば面白そうな遺構がたくさんあります。
さて、次は【生野】に向かいます。
生野鉱山
【生野鉱山(いくのこうざん)】のエリアにやってきました。
銀山は有名ですしいつでも見学ができますので立ち寄らず、今回は周辺のまちを散策していきます。
路地の両側に焼き杉板を張りめぐらした落ち着いた町並み。
左側が旧浅田邸、右側が旧吉川邸、いづれも生野銀山に関わる郷宿です。
旧吉川邸は現・「生野まちづくり工房井筒屋」さんで、生野のまちづくり活動の拠点となっています。
旧浅田邸も「口銀谷銀山町ミュージアムセンター」としてカフェやギャラリー、レンタルスペースとして利用されています。
すぐ近くの川の脇にアーチ型石垣とその上に敷かれた線路を見る事が出来ます。
生野鉱山と生野旧駅を結び、鉱石を運ぶためのトロッコの軌道です。意外と新しく大正時代に作られました。
現在は一部だけ残っており途中で線路が途絶えていますが、川に沿って長いレールが山奥の銀山まで続いていたんだと思います。
さて、明治28年に播但鉄道として生野~姫路間が開通し、鉱石は鉄道運搬が主流となります。
それまでは「生野鉱山寮馬車道」通称【銀の馬車道】を通り、のどかな田園風景の中を金銀銅の鉱石が飾磨津(現姫路港)までの約49kmを馬車に揺られながら運ばれていたそうです。
上の写真は生野鉱山の開発に寄与した朝倉盛明さんの名前から付けられた「盛明橋」です。
銀の馬車道はここから市川左岸を通り、今でも一部は国道312号線として姫路まで続いています。
生野の町並みの随所にカラーのマンホール蓋が見られます。
思わず写真を撮ってしまいました。
調べていくと深い歴史のある【鉱石の道】とそこから瀬戸内海へと繋がる【銀の馬車道】。
まだまだ魅力的なスポットは多くありますが、今回はこの辺で。