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奈良県は面積の約70%が山林で、特に県南部は日本を代表する吉野杉の産地。江戸時代中頃から植林による林業が盛んでした。その山の育成をはじめ、水路や陸路の効率的な木材輸送に大きな足跡を残したのが土倉庄三郎(どぐらしょうざぶろう)です。
吉野の林業家に生まれ、16歳で家業を継いだ庄三郎は、若くして大滝郷総代と材木方総代という公務を務めます。17歳の時、その総代の座を巡って汚職事件が勃発、単身五條代官と面談し、見事解決を図りました。
吉野郡内で9,000町歩の山林を経営、「密植・多間伐・小主伐」という吉野式造林法で、日本一の美林を育て、全国から指導を仰がれます。
1868年(29歳)、吉野川流下木材の口銭徴収反対運動を起こし、廃止に成功、1870年に政府から水陸海路御用掛に任ぜられ、吉野川の水路改修を行いました。
1873年には道路整備(現在の東熊野街道/R169)を計画し1883年に完成、1887年には五條~上市(吉野町)間の道路改修を終えます。その経費は山林地主に出資分担をさせるとともに、自身も莫大な私財を投入しました。
1876年には大滝に小学校を設立、揃いの制服も寄贈する一方で、私学「芳水館」を開校(のちに村へ寄付)します。翌年頃からは自由民権運動家と交流があり、自由党総理・板垣退助の洋行費を出したという記録が残っています。
二男・三男と甥は同志社へ、4人の娘は日本女子大へ預けましたが、かなりの資金援助をし、同志社の創立者・新島襄とも親しく付き合いました。
晩年は川上村村長として村有林の育成にも努めます。生涯を通して人道的・理論的で、“意志の人”であった彼の葬儀には全村民ほか村外からも600人近くが参列したということです。
土倉庄三郎の二男・龍治郎氏は前半生を台湾の林業・水力発電の先駆者として、後半生をカーネーションの研究・生産に捧げました。日本の風土に合うカーネーションの栽培研究により、数多くの新品種が生み出され、“日本のカーネーションの父”と称されます。
庄三郎が亡くなった4年後の1921年、東京帝国大学(現・東京大学)の農学博士・本田静六が中心になって募金を呼びかけ、吉野川に沿った鎧掛岩に庄三郎の功績を讃える「土倉翁造林頌徳記念」が刻まれました。
対岸の国道沿いには土倉翁の胸像と磨崖碑に関する案内板が設置されています。壁に書かれた「土」の字は磨崖碑に刻まれたものと同サイズ。並んで撮ればスケールの大きさがよくわかりますね!
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