関西をもっと楽しむライフスタイルマガジン
今回のテーマは、今も昔も想像を掻き立ててやまない『陰陽師と奈良の怪』。災害伝承が転じたのか、そこに住む人々に畏怖を覚えそう呼ぶようになったのか、はたまた本当に不可思議なことが起こったのか…。様々に語られる『あやかし』の不思議と、奈良時代の『陰陽師』が仕事人であったという事実にスポットを当てながら、夜の奈良町を案内するという内容でした。
信吉氏によると、奈良時代の陰陽師は律令制の中でれっきとした官職であったということです。今も残る『易暦』は、奈良の陰陽師が発行した『南都暦』を模して京都や江戸で販売されたもので、奈良時代の墨や筆、奈良晒などの産業品の一つだったそうです。
まずは実際に陰陽師が暮らしていた奈良町の一角・陰陽町(いんようちょう)からです。細い路地の上り坂を東向きに上がっていくと古民家の「からくりおもちゃ館」の隣に「鎮宅霊符神社」がありました。陰陽師の最高神「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」を祀っており、災いを払って清め霊験あらたかなる神社ということです。
町家の虫籠窓や煙出し、うだつなどを教わりながら半壊状態の地蔵堂へ。中は暗くて見えないのですが、地獄絵が祀られているので地獄の入り口とも思われて地元の方は夜、ここは走り抜けたり遠回りされたりしていたとか。
続いて元興寺小塔院跡へ。元興寺旧境内の小塔堂があった地で、中には現在元興寺にある五重小塔(国宝)が安置されていたと考えられます。春には水仙や桜が、秋には彼岸花が美しい境内を抜けたところが西新屋町(にしのしんやちょう)です。
奈良町の民家の軒先の多くに、赤い布団でできたお猿さんがぶら下がっています。これはあたり一帯に庚申信仰が現在でも根付いており、魔除け・災い除けのためです。その拠点が庚申堂で青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)を祀り、青面金剛の使いである猿を象ったお守りなのです。正面香炉の脚と屋根の上の「見ざる聞かざる言わざる」の三猿にも注目!
あちこちの路地で突き当り曲がりながら御霊神社へ。奈良時代の混乱と政権争いから起きた悲劇(井上(いがみ)内親王・他戸(おさべ)親王母子の同日薨去)後の天変地異を二人の怨霊の祟りと恐れた桓武天皇が慰霊のために創祀。南門には赤い叶う結びに足首を赤くした足止めの狛犬が。
途中、芝突き抜け町の由来を教わったりしながら鵲町と御所馬場(ごしょのばば)町の間の不審ヶ辻子(ふしんがづし)へ。盗賊の霊が鬼になって毎晩元興寺の鐘楼に表れては町人を襲っていたのを、同寺の小僧が追いかけたがその辻まで来ると姿をくらましたので、その辻を不審ヶ辻子と呼ぶようになったとのことです。あたりに鬼がいないか見回している方はいらっしゃらなかったです(笑)。
その辻を抜けたところは奈良ホテルのチャペル、右手に大乗院庭園を見ながらホテルの下を抜け、ホテルアジール系列のなら和み館へ。
奈良の観光土産処のなら和み館内カフェあをがきでは、奈良名産の柿の葉茶や柿サイダー、古都華サイダーなど冷たい飲み物が用意され、各人が好みを手に腰を下ろしてひと休み。一息ついたところで「奈良の民話を語りつぐ会」の小西雅子代表とメンバーの岩城かよこさんが、『十三鐘の石子詰め』『寂々たる寒山寺』などの怖い話や『餅飯殿(もちいどの)』などを語ってくださいました。間では、わらべうた『なかなかほい』を歌いながら実際に手を動かして童心に返りました。皆さん心身共にいいほぐしになったようです。
あをがきから東へ瑜伽(ゆが)神社の前を通り高台の天神社へ。夜の古都が静かにきらめいていました。奈良町界隈の一番高所にあって、晴れた昼間なら遠く大和三山も見晴らせるところだそうです。平城京時代は平城(なら)の飛鳥と呼ばれたサンクチュアリだったとのこと。国つ神・少彦名命(すくなひこなのみこと)と菅原道真公(天満天神)を祀る国家安泰・学業成就の神様です。
そこからすぐの浮見堂までが今回のアジールさんぽのコース。そこで一応解散、ガイドさんと別れましたが、このアジールさんぽプランには燈花会の一客一燈チケットが付いており、始まったばかりの燈花会を楽しみ、平和祈願の一燈を献灯できる(期間中有効)のです。皆さん三々五々、会場へと繰り出されました。
浮見堂の水面に浮かぶ六角形のお堂とボートの提灯、池の周りの燈花の趣深い情景の中へ入り込み、順路のままに橋を渡って浅茅が原、春日野園地へとそぞろ歩きます。奈良春日野フォーラム甍前の一客一燈受付でカップとろうそくを受け取り、池の周りで点灯。過去には白いカップで献灯していましたが、今年は赤にしてみました。広島原爆の日の前夜とあって、しみじみと世界平和を祈りつつ点火しました。花の形のろうそくが赤い影をあたりに投影、白いカップのものと入り混じって厳かな景色を醸していました。
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