【神戸マニア】150年の歴史をさかのぼる!『東門街』で馬が走ってた?
『神戸マニア』では、「これ知っとった?」と言いたくなるような、地元を再発見できる神戸のマメ知識を発信!「神戸の街歩きのネタ」や「市外から来たお友達へのうんちく」に役立つ情報をお届けします。
「JR三ノ宮駅」から西側に5分ほど歩いたところにある東門街ですが、昔は馬が走ってる競馬場だったんです。その痕跡を辿ってみました。
もくじ
● 競馬場はどこにあったの?
● いつ、誰が競馬場を作ったの?
● なんで競馬場はなくなったの?東遊園地が競馬場になっていた可能性も!
競馬場があったのは「JR三ノ宮駅」から西側に5分ほど歩いたところ、生田神社のすぐ東側にある東門街です。
神戸市中央区中山手通1-17
東門街は、生田神社の東側を通る「東門筋」という道路に面した商店街です。
いわゆる雑居ビルがたくさん並んでいて、昼は不動産屋や薬局なども営業してますが、夜になってからは飲食店で賑わうネオン街になります。昼間と夜間では雰囲気がガラッと変わるのが特徴です。
商店街の中間に「生田神社の東門」があることから正式名称を「生田東門商店街」と言いますが、神戸市民には「東門街」の名前で親しまれてます。
そんな東門街に、ほんとに競馬場があったんでしょうか。歴史を辿ってみましょう。
神戸で初めて競馬が開催されたのは、今から約150年前の1868年12月25日。同じ年の1月に兵庫港(後の神戸港)が開き、日本に移住してきた外国人が、開港1年目のクリスマスを祝うイベントとして行いました。
このときの競馬が好評だったので、居留外国人たちは「ヒョウゴ・レース・クラブ(以降、レースクラブ)」という競馬団体を作り、定期的に競馬を開催することを決めたんだそう。
ちなみにこのときの会場は、居留地の東北部にあった空地でした。今は神戸市役所が建ってるあたりでしょうか。
競馬は居留地のビッグイベントになり、翌年4月にあった2度目の競馬開催日は「居留地内の休日」に設定されました。競馬の開催日、居留地内のお店はみんなお休みしたらしいです。
画像:元町商店街5丁目「こうべまちづくり会館」前にある案内板
当時の会場はただの砂利道だったので、新しく競馬場を建設することになりました。そこでレースクラブは生田神社の東側の土地を借りる契約を日本政府と結び、競馬場の建設に着手。これが、今の東門街がある場所です。
その頃の三宮周辺が描かれた地図を確認してみると「生田宮」の東に「競馬所」の文字があることが分かります。
画像:「阪急三宮駅」山側にある案内板
今でも「東門街」の道はS字に曲がってますが、これは競馬場があった当時の地図と一致してます。
画像:JR元町駅すぐ海側にある「JRAウインズ神戸」のシャッター
競馬を開催するときは場内にあるスタンド席のほか、周辺の土地にも小屋を建てて観客を入れました。
新しい競馬場は居留地の外にあったため日本人も自由に見学することができ、当時の日本では「横浜居留地」と「神戸居留地」でしか競馬をやっていなかったので、物珍しさもあって大勢の日本人が訪れたそうです。
その後も今の東門街で1869年に初回を迎えた競馬は、1874年までの5年間にわたって春・秋の年2回ペースで開催され続けました。
人気の競馬だったにもかかわらず、その後どうして競馬場は消えてしまったんでしょうか。理由は大きく分けて2つあったと考えられてます。
1つ目の理由:コースの構造の問題
競馬場には芝生のコースがなく、土や砂が細かく敷かれた「ダートコース」のみだったので、水はけが非常に悪くて扱いづらかったみたいです。
また競馬場は面積が小さくコーナーが急で、馬が最高速度で走り抜けられないという問題も抱えてました。競馬場がどれくらいの広さだったのかイメージを掴むために、今の東門街のどのあたりにコーナーがあったのか見ていきましょう。
コーナーの1つは、北野坂にある「カラオケ館」付近にあったんだそう。今はお好み焼き屋「美作(みさく)」がある角のあたりです。
現在は建物があるので角は直角になってますが、当時はもう少しなだらかなカーブだったのではないでしょうか。ここから北野坂を上って、次のコーナーに向かいます。
2つ目のコーナーは、北野坂と「山手幹線」の道路が交わるところにありました。今は居酒屋「けいすい」があるあたりです。ここから西側に進みます。
3つ目のコーナーがあったのは、東門街の山側ゲートと山手幹線が交差するあたり。ここから東門街の山側ゲートをくぐって、東門筋を海側に向かいます。
ラスト4つ目のコーナーは、東門筋にある居酒屋「吟八(ぎんぱち)」の角のあたりです。「吟八」のすぐ海側には「OLD KOBE」というバーや「クラブ月世界」があります。
東門街に行ったことがある人には、なんとなく競馬場がどれくらいの広さだったのかイメージを掴んでもらえたんじゃないでしょうか。
ちなみに北野坂にあるお好み焼き屋「美作(みさく)」から居酒屋「けいすい」までの直線距離を地図上で確認してみたところ、「約210メートル」でした。宝塚市にある「阪神競馬場」のダートコースは直線距離が「352.7メートル」なので、それに比べると馬が全力疾走できる直線が140メートル以上も短かったことになります。
コース1周の距離で比べてみると「阪神競馬場」が「1517.6メートル」であるのに対し、東門街にあった競馬場は「約870メートル」。1.7倍も異なります。今と比べると当時の競馬場はかなり狭いスペースで開催されてたんですね。
そんなとき「競馬場の土地に鉄道を敷く」という政府の計画が発表されたので、レースクラブは計画を上手く利用して、新しい競馬場を建設するための土地と費用を政府に用意してもらおうとしたんだとか。
しかし交渉は難航し、鉄道の路線は競馬場の南側に迂回することに。競馬場は構造上の問題を解決できないまま続けることになりました。
2つ目の理由:運営資金の問題
コースの構造のほかに、運営資金の問題もありました。
1873年頃に日本の経済状況が悪化し、居留外国人もその影響を受けたので、レースクラブの会員数が減少して運営資金も減ってしまっていたんです。
レースクラブは日本政府に対して「経済状況の悪化」を理由に土地代の減額を申し出て、さらに別の場所に新コースを作る計画も提出しましたが、どちらも却下されたそうです。
同時期にレースクラブを悩ませる別の問題も発生してました。
初期の競馬では日本産馬が多く使われていたのですが、次第に日本産馬よりもスピードの速い中国産馬が走るようになった結果、中国産馬ばかりがレースで勝利するようになったそう。この中国産馬は日本産馬よりも値段が高かったので、競馬は中国産馬を購入できるだけの資金力を持つ馬主によって独占され、資金力の乏しい馬主はレースクラブを退会していったんです。
経済状況の悪化によって会員数も競走馬も足りなくなっていたレースクラブは、この日本産馬と中国産馬の問題でさらに資金難に陥ってしまいました。
ちなみにレースクラブが日本政府に対して申し出たという「別の場所に新コースを作る計画」ですが、そのとき提案した場所は今の東遊園地の外周部分だったそうです。
日本政府の判断によっては東遊園地で馬が走ってる可能性もあったんですね。
当時の東遊園地は「内外人公園」などと呼ばれていて、居留地の開設に伴って作られた外国人専用の運動公園でした。その後「東遊園地」という名前に変わりましたが、これは居留地の東にあったことに由来します。
最終的に競馬場は土地代の支払いが追い付かず、日本政府に返還されました。1876年以降は競馬を開催できなくなり、レースクラブも解散へ。
何もなくなった競馬場の跡地には次第にお店が立ち並ぶようになり、今の東門街が形成されたそうです。
東門街に行ったことのある人は多いと思いますが、次回訪れるときには競馬場だったときの賑わいを思い浮かべながら歩いてみてはどうでしょうか。
新しい飲食店も続々オープンしてるので、チェックしてみてくださいね。