綾部市で多い名字、1位の四方(しかた)さん、2位の大槻さん そのルーツに迫る!
自分の住んでいる地域に●●さんって名字多いな~とかめずらしい名字とか、子どもの頃素朴に疑問に思っていたことありませんか?
今回は、綾部市に多い名字がテーマ。現地に出向いて名字のルーツを独自調査してきました!
大槻家に残る、門外不出だった家系図をメディア初公開!
旧姓四方、現在大槻!1位2位の名字を持つ市民にインタビュー!
綾部市資料館で編集部が調査したところ、明治時代からずっと一番多いのは四方(しかた)さん、次に多いのは大槻さんでした。
※そもそも、名字が一般的になったのは戸籍ができた明治時代からのこと、最近の研究では江戸時代から多くの人が名字を持っていたといわれています
今回は、綾部史談会に所属する大槻祐紀さんにお話をおうかがい。なんと、大槻さんの旧姓は四方さん。昭和54年、約400年続く大槻家の本家(綾部市西坂町)へ婿入りし、四方から大槻姓となったお方!で今回のテーマにピッタリ。(笑)
大槻家がそうそうたる歴史の舞台に登場し、こうして今の大槻さんへと続いていることがわかりました。
約20メートルの家系図のルーツは平安時代、天神さん菅原道真の三男
――こちらが大槻家の家系図ですか?立派な製本のようですが。
はい、元々20メートルに及ぶ巻物だったんですが。蔵から出てきたときには傷みが激しかったので、急いで製本したんです。それが約20年前のことになるかと。
家系図の最初を見ると、菅原道真の「三男・大月清重」と書かれているんですよ。
――ええ!?天神さんでおなじみの、あの菅原道真が名字のルーツ!?
はい。菅原道真は、藤原氏の政略により九州・大宰府へ左遷されることに。その際、子どもたちは散り散りになって。三男は、備後国(現在の広島県東部)の地方豪族になって「大月」と名乗っていました。後の代に中国地方全域に勢力をもつようになります。
――ここ(赤矢印)に菊のような絵が描かれていますが、これはなんですか?
家紋に似たようなものらしいのですが、まだ道真のひ孫の時代、家紋はなかったと思います。
菅原道真の三男・大槻清重の孫の代、天皇から上洛を命じられ拝謁しました。先祖の大月氏が菅原道真の末裔ということを知った天皇から菊の絵を賜り、錦の旗として備後へ持ち帰ったそうなんです。
源平の合戦で平家を討伐した十二士(じゅうにし)
――ツキという漢字、途中から変わったんですよね?
はい、そうなんです。実は源頼朝の一声で漢字を変えることになるんですよ。平安末期の源平合戦の際、関東で源頼朝が挙兵したときに大月氏も加勢しました。
「弓矢の名手」で狩りが得意だったことから、「扌(てへん)に矢に見」のツキの字を頼朝から賜って、変えたそうです。明治時代まではこちらのツキを使っていたんですよ~。
また、狩りが得意というエピソードが元で、家紋は「結び雁金(かりがね)」なんですよ。かりだけに。(笑)
大槻氏にもいくつか流れがあり、家紋も異なります。
「備中系」の大槻氏はこの家紋が多いそうですが、ほかに「扇紋」「橘紋」があります。橘紋は大槻氏のルーツが菅原氏にあることを由来にしているそうです。
――他の資料を拝見すると、源平合戦で後白河法皇の第3王子・以仁王(もちひとおう)に尽力した、綾部の12の武士の筆頭に「八条院蔵人 大槻権守光頼 (綾部市高津町)」と名前が挙がっていますね。
十二士(じゅうにし)の中に、荻野、村上、上原という有力武士の名前も出ていて、現在も綾部市に比較的多い名字として続いていることもわかりますね。
全国66カ所に「安国寺」建立の通知を出す、綾部安国寺が本家本元!
――安国寺といえば、足利尊氏(たかうじ)が創建した有名な寺院で、綾部市の有名観光スポットですよね。
そう、戦乱で亡くなった人々の慰霊の意味も込めて、全国66か所に安国寺を作らせよ!と尊氏が命を出すんです。
綾部の場合、もともと尊氏の母方、上杉氏の菩提寺だった光福寺というお寺を「安国寺」と改めて、全国安国寺の筆頭寺院にしました。境内には実母のお墓もありますよ。
――大月氏一族は安国寺とどういう関わりが?
足利尊氏が征夷大将軍になった1400年頃、中国地方から丹波国何鹿郡(いかるがぐん)、天田郡の地頭(じとう)になります。このとき「日本六十六寺寺社の役」を仰せつかったのが大月清宗で、全国に安国寺建立の通達する役割を担っていたそうです。
▶安国寺の詳細はこちらから
足利尊氏からもらった感謝状も、尊氏の花押(かおう)入り
南北朝時代末期に、足利尊氏が南朝軍を倒すために現在の亀岡、篠八幡宮で挙兵しました。そこに丹波国の有力武士として加勢したんですが、尊氏率いる北朝が勝利をおさめたことにより、この感謝状をもらったそうなんです。
実際はB4くらいの大きさなんですが、縮小しています。きちんと花押(赤矢印)という、尊氏直筆のサインも入っているんですよ。(嬉)
――篠八幡宮といえば、明智光秀が「敵は本能寺にあり!」と、織田信長を倒す際に挙兵し、必勝祈願をした場所としても有名ですよね。さらに光秀とも深く関わってくるんですね。
2020年大河ドラマの主人公、明智光秀と戦った
――光秀とも戦った大槻さんがいたんですね~!!
はい。江戸時代の丹波の地誌『丹波志』によると、綾部市高津町に大槻氏が城主となる高津城がありました。信長の命で丹波平定を進める光秀に当時の高津城城主、大槻大学は滅ぼされてしまうんです。山家藩の和久氏が最後まで粘りますが落とされてしまい、丹波国の有力武士たちは全滅・・・するんです。。。(苦)
――大河ドラマで丹波平定がどのように描かれるのか気になります!
【コラム】
大河ドラマのみどころになるかも?丹波平定にまつわる観光スポットのご紹介
~高津八幡宮~
JR高津駅の近くに位置する高津八幡宮。こちらの南東位の山頂に高津城跡があります。中世の城跡と、武運を祈ったであろう神社、そして神社を護持する集落がセットで残っているのは珍しいそうですよ。
表参道から本殿まで、江戸時代中期(天明年間)に造営された約400段の美しい石段が続きます。
一般公開されていませんが、貴重な資料をご紹介。こちらは高津城主であった大槻辰高の晩年の肖像画。寛永13年(1636)にひ孫の為高があつらえ、辰高が崇敬していた高津八幡宮へ奉納しました。綾部市内で確認できる戦国時代の武将の肖像は、この一点のみ!
▶高津八幡宮の詳細はこちらから
豊臣秀吉の息子・秀頼の家来に。関ヶ原の合戦に加勢
――先ほど、丹波国の大槻氏一族が全滅したと・・・ききましたが、名字が残っているということは、そうではなかったということですよね?
丹波平定で大槻氏は全滅したかとおもいきや・・・実は、乳母が子どもを連れて丹後国の大江町の有力武士、林田家にかくまってもらうんです。
ほかにも大槻氏の子どもがかくまわれたという話が残っています。(「渡邊家系譜」より)
安国寺の中興・周慶善室禅師(しゅうけいぜんしつぜんじ)も大槻氏の忘れ形見。安国寺村の渡辺家の養子となり、のちに出家して、安国寺の住職となりました。
林田家にかくまわれて大きくなった清勝は、秀頼の家来となり1700石を与えられる武士へと成長し、大坂冬・夏の陣に出陣します。しかし豊臣家の滅亡により、死を覚悟した清勝はまだ幼かった一人娘の鶴に系図を託し、討ち死にしてしまうんです。
そのときに書いたのがこちらの系図なんですよね。巻末には、「誰でもかれでも大月(大槻)を名乗らないよう、子々孫々の宝として系図を書き残し、鶴へ贈る」というような内容が書かれているんですよ。
成長した鶴が園部の大槻の豪士から養子・大槻市之丞清経を迎え結婚し、ここの西保村(西坂)へ居を構えます。以来、約400年間大槻家は続き、僕で12代目です。
こちらが我が家の裏山が初代のお墓で、実は古墳の上に立っているんです。(笑)僕が生きているうちに、400回忌を迎えようとしているんです!
――うわー、400!?高僧レベルですね。お墓の向こうに見える鳥居は??
幕末に、京都の北野天満宮から菅原道真公の御霊を勧請して祠を建立しました。以来、西坂天満宮と呼んで、町内の盆踊りを数十年前まで行っていましたが、今は、大槻家の親戚(大槻株)9軒でお祭りをやっています。
江戸時代、園部のお殿様の宿泊所だった
――客間の額に入っているこの図面はなんですか?
これは昔の母屋の図面です。蔵からホコリだらけで出てきたんですが、郷土史研究家の方がとても貴重なものだ!とおっしゃるんで、表具屋さんへ出してキレイにしてもらったんです。実は、この地は園部藩の飛び地だったことから、2、3年に1回、地方巡察に来られていたときにお殿様が宿泊所にされていました。
お殿様を迎える際に、毎回、大がかりなリフォームをしていたそうで、こちらがそのときの図面です。赤矢印がお殿様の部屋、青矢印がトイレ。
――この時代に部屋の中にトイレがあるなんて、スゴイことですよね!それにしても、毎回リフォームして、食事の接待もして・・・ものすごくお金かかって大変すぎますね。
亡き義父が「人の集まる家にしないと」と常々言っていたこともありまして、大槻家の家訓的な感じですかね。(笑)もてなすのは大変ですが、楽しんでやっています。
今でも親戚で集まることは多いですが、ミツバツツジの鑑賞会は友人やその知り合いの方もいらっしゃることもあります。知る人ぞ知る綾部の新名所かもしれません。(笑)
――本当に見事なミツバツツジ、綾部市観光協会に問合せがたくさん入るかもしれませんね。(笑)大槻家がそうそうたる歴史の舞台に登場し、こうして今の大槻さんへと続いていることがよくわかりました!
ランキング1位の四方さんのルーツも気になる!
ここからはランキング1位と人数が多いだけに、「四方さん」のルーツもさまざま!
江戸時代の地誌『丹波志』からも江戸時代には四方さんの名前がいくつかに分かれていたことがわかります。
綾部のお殿様・九鬼氏から名字を賜った説
まずは京都府議会議員の四方源太郎さんに電話取材、ブログも書いてくださいましたよ。
お祖父様が書き残したものによると、「綾部のお殿様・九鬼氏が三重から転封した際に一緒にお殿様と綾部にやってきて、お殿様から“四方”という名字と家紋、屋敷を賜った」とのこと。さらに、源太郎さんの伯父にあたる洋さんによると、「四方家はお殿様の家庭教師のような家柄であった」ことなど聞いているそうです。
ちなみに、綾部藩主の九鬼家の家臣団は、三重から一緒についてきた人と現地採用された人がいるそうで、現地採用の土着の武士は元々の名字を使っていたんだとか。
▶四方源太郎さんブログより
▶綾部の文化財を守る会35周年記念講演「綾部九鬼藩歴代藩主とその藩士たち」
近江からやってきた四方さん説
続いて、綾部市資料館の朝倉さんにお話をおうかがいしてきました!
綾部市の吉美地区にお住いの四方さんからうかがった話に、近江の佐々木氏が戦に敗れて綾部へ逃れてきたという説があります。「佐々木」姓のままでは残党狩りに遭う恐れがあったので、素性を知られぬよう「四方」姓に変えたとのこと。
たしかに、四方家の家紋は近江の佐々木氏の家紋と似ていますね。
近江と綾部のつながりは…?!
郷土史家の川端二三三郎(ふささぶろう)さんのお話によれば、近江国の武将で、織田信長の家臣であった高田治忠(豊後守)が、天正15年(1587)以降、綾部の上林に1万石の所領を持っていた時代があるとのこと。
もとは、秀吉以降、宇治の茶師として名をはせ、今や「綾鷹」で知られる上林氏の所領ですが、天正年間、信長勢に押され、天正8年頃に領地を明け渡したようです。
上林氏が退いた後は、天正10年に川勝氏の所領となり、天正15年には高田豊後守の所領となった記録が残っています。
上林氏は近江の浅井氏と連携していたようで、少なくともその頃から、近江と綾部をつなぐルートがあったと言えます。
綾部の名字には四方さんのほかにも、遠藤さんや福井さんなど、近江から来られた名字がいくつか確認できますよ。
京都通のススメ!地元民と何気ない会話をすべし!!
みなさん、いかがでしたでしょうか。名字をたどるだけでここまでの取れ高になるとは正直驚きでした!
京都に観光される際はぜひ地元の方と交流してみてはいかがでしょうか。
何気ない会話から、京都通もびっくりなお話が聞けるかもしれませんよ。(笑)
■■Information■■
綾部市観光協会 電話:0773-42-9550
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さかもとみえ
今回、綾部市観光協会さんに全面的にバックアップいただきました。そして取材にご協力いただいた関係者のみなさまにも心より御礼申し上げます!本当にありがとうございました!!2020年の大河ドラマ、丹波武士たちがどのように描かれるのか楽しみでなりません(><)