2020年大河ドラマにも登場する戦国武将・細川幽斎(藤孝)ってどんな人?
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』の出演者、第2弾が発表され話題を集めています!
大河ドラマでは主人公・明智光秀と苦楽をともにした盟友であり、親戚でもある細川幽斎(ゆうさい=藤孝)は、今後注目を集めること間違いなし!の戦国武将。
細川家というと全国的には熊本のお殿様というイメージですが、その礎を共に築いたのは京都でした。歴史のポイントを予習しておくと、よりドラマのストーリーを楽しむことができますよ。
※読みやすさ重視で細川藤孝を「幽斎」で統一します。
細川幽斎は明智光秀に並ぶ織田信長の超優秀な家臣だった
まずは、細川幽斎とはどういった人物なのかをご紹介します。
幽斎は、織田信長と同じ歳であった戦国武将です。幽斎と光秀は足利将軍や織田信長に使えた家臣で、苦楽をともにした同僚であり友人でした。さらには信長が光秀の娘・お玉と幽斎の息子・忠興を結婚させ、親戚関係にもあったんです。
最初に細川家が信長から与えられた領地は西岡地域(現在の京都府長岡京市・向日市)でした。このときから「長岡」姓を名乗ります。
その後、約10年治めた西岡を信長へと返し、幽斎と忠興親子は天正8(1580)年8月に丹後国(今の京都府北部ですね)を信長から与えられ移封。丹後支配の拠点で、鳥取攻めの拠点ともなる宮津城を築城し、本城としました。
突然の「本能寺の変」で幽斎は出家&隠居@田辺城
丹後の領主になってからわずか2年後、天正10(1852)年6月2日、光秀が主君・信長を討つ「本能寺の変」の知らせをうけます。
信長に対する追悼の意味を示すために髪を下ろし、幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗り、家督を息子・忠興に譲り、舞鶴の田辺城にて隠居します。
光秀と秀吉が激突した“天下分け目の合戦”こと山崎合戦では、幽斎は信長父子の喪に服するという意味で、中立の立場として丹後から動きませんでした。
関ヶ原の戦いで東軍・徳川家康についた細川家にふりかかった西軍・石田三成の仕打ち
そこから18年後・・・。秀吉の死後、着々と実力をつけてきた徳川家康に対し、石田三成らが次第に不信感をつのらせた内部対立がきっかけで「関ヶ原の合戦」が勃発します。
細川家は東軍・家康の味方につくことを決断、家康に従い忠興は多くの大名とともに西軍の上杉景勝討伐のため会津へ出兵中のころ、ついに三成と家康が対決することに・・・。
三成は細川忠興に対して容赦のない仕打ちをします。
容赦ない仕打ちその1: 盟友光秀の娘であり忠興の美人妻・ガラシャを人質に
大坂城にいた三成は大名夫人を人質にとり優位にたつことを考えます。しかし、忠興の妻、お玉(洗礼名:ガラシャ)は人質となることを断り、大坂・玉造にあった細川家の屋敷に立てこもり、キリスト教の教えにより自害はせず、家来に命じて命を絶ちます。38歳でした。
容赦ない仕打ちその2:忠興の留守を狙ってか?隠居中の父・幽斎(藤孝)攻め=田辺城籠城戦で大ピンチ
「田辺籠城戦」は、全国的にはあまり知られていないですが、聞くととんでもない逆転エピソード!まさに「埋も歴史」じゃないでしょうか!
細川家を批判する手紙を三成から受け取った丹波、但馬、九州の大名たちが次々と挙兵し、約1万5000人もの大軍が丹後へと押し寄せ、ついには籠城戦へ突入。幽斎軍は大軍相手にたった500人で田辺城を守ります。
絶体絶命のピンチに陥った幽斎のところへ、天皇から「停戦せよ」との命が。落城寸前のところで、幽斎は難を逃れます。苦難を乗り越えた先にあったのは、細川家の九州の大!大名!!への大出世でした。
なぜ、細川幽斎は1万5000人もの大軍を相手に、たった500人で対抗できたのか、なぜ、天皇は停戦命令を出したのか……ちゃんと理由がありました。それは次回のKYOTOSIDEでたっぷりご紹介します!どうぞお楽しみに!!
★細川家の歴史・文化を継承する博物館・永青文庫
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