「由良川橋梁」大解剖〜青い空、青い川の上に溶け込むように走る列車〜
青い空、青い川の上をまっすぐに走る1本の赤い鉄橋。そこに溶け込むように走る列車……今回は、フォトジェニックな橋として人気の「由良川橋梁(ゆらがわきょうりょう)」について、深堀りしていきます。
由良川橋梁を解説してくださるのは…
SNSなどで人気の「由良川橋梁」があるのは由良川の河口。宮津市由良と舞鶴市西神崎に架かる鉄道橋です。今回も解説をしてくださる先生は、建設コンサルタントの橋梁エンジニア(技術士:建設部門)で愛橋家の丹羽信弘さん。
「由良川橋梁の全長は約551メートル。大正12(1923)年に完成した橋なので、できてから101年目になる橋ですね」とのこと。
どんな橋なのか楽しみ! 早速、行ってみましょう。
「橋歴板」を見れば橋の歴史が分かる!
京都丹後鉄道の丹後由良駅から歩いて行ってみることにしました。すると最初に現れたのが「由良川橋梁」のお隣にある「由良架道橋」。いつもは気にもとめていなかった橋ですが、改めて見ると、なかなかカッコいい橋なので見学することにしました。
※架道橋(かどうきょう)とは、道路を跨ぐ鉄道橋のこと
「これは橋歴板(きょうれきばん)といって、完成年月・事業者・設計活荷重・施工者・使用材料などを記したものです。橋には必ずあるもので、これを見ると色々と分かるんですよ」。
なるほど、「大正十二年 株式会社横河橋梁製作所製作」と書かれています。
横河橋梁製作所といえば明治時代、日本の鉄骨建築の先駆者ともされる横河民輔が創業した鋼橋の専門メーカー。現在は横河ブリッジの名でレインボーブリッジや明石海峡大橋、大鳴門橋など、そうそうたる著名な橋を建設している大会社。そんな大きな橋梁会社が100年も前に架けたのですね。
「LIVE LORD COOPER’S E33というのは、活荷重(列車荷重)はクーパー荷重のE33ということですね」。
これは専門すぎてちょっと難しいのですが、簡単に言うと列車の荷重のこと。列車が橋の上を通る際に車輪(車軸)から作用する移動重量が、どれだけのもので設計されているかという数値のことだそうです。アメリカ人の土木技術者、セオドア・クーパーが計算の手法を考案したことから、クーパー荷重といわれています。日本では鉄道が国有化したのを機に明治42(1909)年に採用されました。
「この橋歴版を見ると、当時の鉄道院が日本の鉄道敷設拡大のために予め設計した大正8年達540号式の70 ft桁(E33荷重)の定規桁(標準設計桁)にのっとって作られてたことがわかります」。当時、この定規桁を鉄道院で設計した技術者の中に、橋の世界のアカデミー賞「土木学会田中賞」の名の由来となった田中豊さんの名前もあるんですよ。ちなみに丹羽さんも設計した橋で3度も受賞されているんですって。
※E33のEはengine機関車を意味し、33は動輪の軸重33,000 lb(ポンド)約15トンの先頭2桁をとっています。
その下のMATERIALS(材料)には、I.J.G. STEEL WORKS.という名前が見えますが、これは官営八幡製鉄所(現在の日本製鉄)のこと。その下に「、、」が続くので、I.J.G.製鉄所のものをたくさん使っていることが分かります。
なるほど、こうやって見ると橋の歴史が分かりますね。
いよいよ由良川橋梁へ
橋歴板の見方が分かったところで、メインの由良川橋梁へ行ってみましょう。川に対して一直線に架かっている橋の姿が見事です。しかし、冬ということも相まって、ちょっぴり寂しそう。
「私が思うに、車が通る橋は車が無い方が絵になりますが、鉄道橋は列車が走っていないと絵にならないんですよね」と丹羽さん。
というわけで、しばらく列車が来るのを待ってみました。線路は単線で上下線ともに1時間に約1本づつ(30分に1本)通るので、時刻表を見ながらしばらく待機です。
ところで橋に書かれている名前をみると、由良川橋梁の「りょう」がひらがなで書かれているのです。丹羽さんにお尋ねすると、「梁」の字は常用漢字ではないため、正式文書ではひらがなで書かれるのだとか。
これは鉄道橋あるあるなんですって。
青い列車がやってきました。カッコいい〜! 確かに列車が走っていた方が、あきらかに素敵に見えますね。
線路が水面から5~6メートルのところにあり、水面と近いのも絵になるポイントですね。
橋歴板を見てみましょう。
由良川橋梁の橋歴板は何回も塗料が塗り重ねられているため何が書いてあるのか分かりにくいのですが、先ほどの由良架道橋の橋歴板と見比べてみると、「大正十二年 株式会社横河橋梁製作所製作」と書いてあるようです。『日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)篇』を見ると、やはり大正12(1923)年12月1日に完成したと書いてありました。
こちらには、橋を塗装した際の情報などが書かれています。
「何度も塗り直すので、こうやって記載しておくんです。これによると2020年に塗り直しているようですね。そして支間は22.25メートルで架かっていることも分かります」
由良川橋梁の細部を見よう
「橋の形式は上路プレートガーダーですね」
上路橋とはガーダー(橋桁)の上に通路がある橋のこと。そして、鋼板や型鋼を組み合わせて断面が「I 形」なるように組み立てた桁を鈑桁(ばんげた)またはプレートガーダー[plate girder]と言うのだそうです。
「ガーダーに番号が記載されていますね。左岸側の橋桁に24と書かれているので、起点側である向こう岸から数えて24連めということが確認できます」
ここがプレートガーダーの添接部と呼ばれる繋ぎ目。鋼橋は一連の桁を工場で製作して現地へトラックやトレーラーで運び、クレーンなどを使って架けます。ですが長い桁のままでは道路を運搬できないので、運べる長さに分割し、繋ぎ目にI形の添接板と呼ぶ鋼板を貼って補強し、リベット(丸い玉がそれ)で打ち付けて繋ぐのだとか。
現在はボルトや溶接で繋ぎますが、昭和30年代ぐらいまではリベットで接合するのが主流だったそう。ゆえに由良川橋梁もリベットで接合し、組み立てられています。
また、繋ぎ目や曲げにより大きな引張力が作用する部分には上下に鋼板を1枚、2枚と足して補強しています。こうやって見て行くと、どの部分に大きな力が作用しているのか見えてきますね。
職人技が光る橋脚
上部構造ばかりに注目していましたが、下を見ると橋脚がズラリと並んでいて美しい〜。下が太く、上が少し細くなっています。まるで中世のお城のよう。
「でも、よ~く見ると橋脚柱とコンクリートの井筒基礎に少しズレがあるんです。ここが当時の施工技術の限界ですね」
ほんとだ! 言われないと分かりませんが、確かに橋脚柱が基礎の真ん中にきていないですね。水中で基礎を構築する際、設計図から少しだけズレてしまってたんですね。施工当時、とても難しい工事であったことが伺えます。
「そして橋脚表面のこれ、実は石を積みあげたのではなくて、コンクリートを型枠に流し込んで橋脚を作った後、石積み風にモルタル仕上げで目地を付けているんです」。
こういう小さな細工がニクイですね。当時の職人さんの心意気でしょうか。
「橋脚の材質は鉄筋コンクリートですが、見ての通りコンクリートの骨材に川砂利が使用されているので、かなりの強度がありますね」
今は規制があって川砂利は使えませんが、当時はまだ使えたのだとか。
さらに昔は写真の上流側に設けられた管理用の橋側歩道を使って地域の人が橋の上を歩いて向こう岸に行くこともできたそう。もちろん現在は歩くことはできません。でもこれ、列車が通る時はどうしたんでしょうね。そして風の強い日はさぞ怖かったことでしょう…。
鉄橋の上からの景色も満喫
下から見ているだけでなく、丹後由良駅から丹後神崎駅間を乗車して橋を渡ってみることにしました。丹後由良駅はヨットの帆をイメージしたコテージ風のデザイン。中にはカフェもありましたよ。
そして駅では、こんなかわいいスタンプが押せました! ネコが海水浴に誘ってる〜。夏の由良は海水浴客で賑わいますからね。
さて青松号に乗り込み、駅を出発するとまもなく由良川橋梁です。橋の上からの景色はどんな感じなのかワクワクです。
水面に近いので、まるで海や川の上を走っているかのよう。そして取材当日は雨が降って霧も出ていたので、なんだか温泉の中を走っているるようでもあります。
鉄道橋は眺めるのもいいですが、橋の上から見る景色もいいですね。
みんなの想いをのせ、苦労の末に作られた鉄橋
ところで由良川橋梁を見学していて疑問に思ったのが、なぜ、河口付近に作られたのかということ。風雨や雪、潮風の害などを考えると、ここに造るのは条件が悪い気がします。
それに現在でも車や人が通る橋は河口から約6キロ上流に架かっているんですよね。
その歴史を少し紐解いてみると、舞鶴には鎮守府があったことから明治37(1904)年に福知山~新舞鶴(東舞鶴)間に官設の舞鶴線が通っていました。しかし舞鶴・宮津・峰山間に鉄道は通っておらず、鉄道を敷設することは住民の長年の夢でした。
『宮津市史』を見ると、その敷設運動が本格化するのは大正5(1916)年から。丹後鉄道期成同盟会が組織され、鉄道院技師による測量が行われました。さらに大正7年度での着工を求め、丹後五群の有志者による鉄道規制同盟会を設立。政府への働きを強めた結果、正式に鉄道の建設が決まりました。
ところが用地買収は進行しているにも関わらず、大正9(1920)年になっても未着工でした。その理由として由良川の架橋地点が定まらなかったこと、それにより線路を右岸と左岸のどちらに通すか決まらなかったこともありました。
市史によると旧・加佐郡丸八江村(舞鶴市の北西部。由良川下流左岸に位置)の人々が、当時の建設予定地(おそらく丸八江村より上流、志高辺り)に鉄橋を架けると洪水時に家が流出する原因となるので、適当な堤防を造るか場所を移動してほしいと陳情しています。確かに由良川は古来より数年おきに氾濫し、洪水が起きている地。そのような陳情があるのもうなずけます。
結果、橋を大幅に移動することで折り合いが付き、線路も右岸に通すことで決定。『日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)篇』によると、ついに大正10(1921)年10月に舞鶴(現在の西舞鶴)方から工事が開始されたとあります。
とはいえトンネルなど数々の難工事が待ち受けていました。中でも難工事中の難工事とされたのが、この由良川橋梁。基礎の地質は締まった砂利なのでコンクリート井筒にしたのだそうです。丹後由良までの線が竣工したのは大正12年12月1日。約2年の歳月を要しているので、いかに難工事だったのかが分かります。そしていよいよ大正13(1924)年4月12日にまずは舞鶴・宮津間が開通し、大々的な祝賀祭が行われました。
※コンクリート井筒(ケーソン基礎)=円筒を地盤上に据えて中の地面を掘り、自重と荷重で沈下させていき、円筒が硬層まで到達したら、コンクリートを入れてして基礎を作る工法。
そのような人々の想いの上にある由良川橋梁ですが、この一直線に通ったシンプルさは他に類を見ない美しさでよね。
それに水面に近く、付近に他の橋や大きな建物がないことから、遠方から撮っても余計なものが映らないことも魅力の一因。とてもステキな橋でした。
見学を終えて 丹羽さんより――
魅力的な鉄道橋写真は、何といっても列車が橋の上を通っている写真だ!これはSNSを見れば一目瞭然、誰もが認めるところです。道路橋では車が無い方が良く見えるのに何故でしょう?私が思うに、鉄チャン(鉄道ファン)に愛される列車そのものが魅力的であることと、それを壁高欄や防護柵で隠さずに車輪から車体まで全部見せてくれるところではないでしょうか。(でも運転手さんは線路の左右に壁高欄や防護柵が無くて運転していてヒヤヒヤしないのでしょうか。笑)
今回は、THE 冬の日本海というお天気で、水墨画のような世界感での由良川橋梁でしたが、雨の中でも観光客らしき女性二人が撮影されていたのにも遭遇し、その人気ぶりは本物です!
100年前に造られて今も現役で日々皆さんを安全に運んでくれる由良川橋梁、この愛おしい橋の魅力を実際に見上げて、乗って、ぜひ体感していただきたい。そして、これからも、この橋を愛して欲しいと思います。
■■INFORMATION■■
由良川橋梁
京都府宮津市由良
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