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「石州」の名で知られる片桐貞昌は江戸時代前期の大名で大和小泉藩の第2代藩主。政務では治水・土木事業に功績をあげ、茶人として将軍家の指南役を務め石州流の礎を築いたことで有名です。
初代大和小泉藩主・片桐貞隆の長男として摂津国で生まれ、伯父の片桐且元(かつもと)の死後、父の移封に伴い大和小泉に移ります。
13歳で江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠に接見、19歳で従五位下石見守を受領(石州の呼び名はこれによります)、22歳で父の遺領を継ぎ、大和小泉藩主となりました。
26歳で正室を迎え、30歳の頃には幕命により、徳川家の菩提寺である京都・知恩院の再建普請奉行、関東の郡奉行などを務め、全国各地の土木治水事業に駆け回りました。一方で小泉藩主として、留守中の治国も怠らず、年貢取り立てなどは厳しくチェックさせます。
知恩院再建の約10年間、京都に居を構え、小堀遠州らと交流しながら茶を研鑽、同時に禅の修行も行って武家流茶道を完成します。
道安(千利休の実子)の門下である桑山左近宗仙に学び、1665年、第4代将軍・家綱に茶を点じ将軍家の茶器を鑑定。以後将軍家の茶道指南を務め、村田珠光・武野紹鷗・千利休らと並ぶ茶道六宗匠の一人となりました。
母方の曽祖父は茶人の今井宗久。千利休・津田宗及と共に茶の湯の天下三宗匠でした。石州が茶人として成功を収めたのはその血を引いていたのでしょうか。ちなみに堺の商人でもあり、織田信長に重用された今井宗久は、今井町(橿原市)の出身です。
石州の茶説は利休から伝わる侘びの精神を強調したもので「茶の湯は、人に見せるためのものではなく、実生活においてその心を自在に表現するのが本義」としています。
58歳の時、父の菩提寺として創建したのが慈光院。その庭園は、大和の青垣と平野を借景とする枯山水の書院庭園で、随所に石州好みをうかがわせ、當麻寺中之坊・竹林院群芳園と並ぶ大和三名園と称されます。
石州好みの茶室として伝わるものに四畳大目、四畳半、三畳大目等がありますが、大和松尾寺には「七尺五寸廻り敷」という他に例を見ない独創的な茶室が現存します(非公開)。
石州の最も早い頃(29歳)の作といわれる茶室で、最晩年のものが慈光院の二畳大目の茶室です。最若年の頃の茶室には貴人口が付き、にじり口はついていません。
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